Bar White River 白河と石神井をこよなく愛する呑んだくれ・喰いだおれの日記
大晦日。
両親ともども家族で伊豆へ行く。
スーパービューではない、オールドタイプの懐かしい「踊り子」で伊豆急下田まで。

そして、レンタカーを借りて、下田市内を少し散策だ。
下田公園の駐車場に車を停め、まずはペリー上陸記念碑へ。

ペリーが開国を求めて来航した地は下田ではなく、浦賀である。
よく混同されがちだが、下田は日米和親条約によって函館とともに開港された地で、
下田に領事館が置かれハリスが赴任した。

ペリーは開港地として下田がふさわしいかどうか調査船を派遣。
そのとき上陸した地がここ鼻黒であった。

上陸したペリー一行が交渉場所である了仙寺まで歩いたのが
この「ペリーロード」とよばれている川沿いの古い町並みだ。

なかなか趣がある。



そして、ここ了仙寺で日米和親条約の細則を定めた下田条約を嘉永7(1854)年5月22日に締結されるのだ。



さて、昼食をどこかでとろう。
了仙寺の近くで「うなぎ」ののぼりが目にとまり、入ってみる。


カミさんは「海鮮丼」

長女は「いくらと鮭の親子丼」

長男は「刺身定食」

次男は「天丼」

私は下田といえば金目鯛かなと「金目定食」

濃いめの味付けで、ごはんがすすむ。

父と母はそろってうな重。
私の鰻好きは間違いなく両親の影響だと思う。

そして、このお椀の美味しさに長女が唸っていた。
亀の手が入っていることはすぐわかったが・・・

聞いたこともない名前の貝がたくさん入っていたのだ。

昼食後は宝福寺に移動。
坂本龍馬の脱藩が土佐藩主山内容堂によって許された地として、
また唐人お吉のお墓かあることで知られている寺だ。

勝海舟と山内容堂が会談したのであって、
ここに坂本龍馬が来たわけではないんだけどね。。。


唐人お吉のお墓

唐人お吉は本名「斉藤きち」といい、
天保12年11月10日、愛知県知多郡内海に、
舟大工・市兵衛の次女としてこの世に生をうけました。
4歳の時、家族が下田に移り住み、14歳で芸子となりました。
新内明烏のお吉と謳われるほどの評判と美貌でしたが、
それが奉公所の目に留まることとなり、
17歳の時、法外な年俸と引き替えに心ならずもアメリカ総領事タウンゼント・ハリスのもとへ
待妾として奉公にあがることとなります。
その後は、幕末、維新の動乱の中、芸子として流浪の果てに下田に戻り、
鶴松と暮らし、髪結業を始めますが、ほどなく離別。
さらに小料理屋「安直楼」を開業しますが、2年後に廃業しています。
「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑を浴びながら貧困の中に身を持ち崩し
明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます
波乱にみちた51年の生涯のあまりにも悲しい終幕でした。
~八幡山宝福寺 唐人お吉記念館HP
それでは下田を離れ、宿へ向かおう。
活魚料理 新田
静岡県下田市三丁目2−12
0558-22-1672
両親ともども家族で伊豆へ行く。
スーパービューではない、オールドタイプの懐かしい「踊り子」で伊豆急下田まで。

そして、レンタカーを借りて、下田市内を少し散策だ。
下田公園の駐車場に車を停め、まずはペリー上陸記念碑へ。

ペリーが開国を求めて来航した地は下田ではなく、浦賀である。
よく混同されがちだが、下田は日米和親条約によって函館とともに開港された地で、
下田に領事館が置かれハリスが赴任した。

ペリーは開港地として下田がふさわしいかどうか調査船を派遣。
そのとき上陸した地がここ鼻黒であった。

上陸したペリー一行が交渉場所である了仙寺まで歩いたのが
この「ペリーロード」とよばれている川沿いの古い町並みだ。

なかなか趣がある。



そして、ここ了仙寺で日米和親条約の細則を定めた下田条約を嘉永7(1854)年5月22日に締結されるのだ。



さて、昼食をどこかでとろう。
了仙寺の近くで「うなぎ」ののぼりが目にとまり、入ってみる。


カミさんは「海鮮丼」

長女は「いくらと鮭の親子丼」

長男は「刺身定食」

次男は「天丼」

私は下田といえば金目鯛かなと「金目定食」

濃いめの味付けで、ごはんがすすむ。

父と母はそろってうな重。
私の鰻好きは間違いなく両親の影響だと思う。

そして、このお椀の美味しさに長女が唸っていた。
亀の手が入っていることはすぐわかったが・・・

聞いたこともない名前の貝がたくさん入っていたのだ。

昼食後は宝福寺に移動。
坂本龍馬の脱藩が土佐藩主山内容堂によって許された地として、
また唐人お吉のお墓かあることで知られている寺だ。

勝海舟と山内容堂が会談したのであって、
ここに坂本龍馬が来たわけではないんだけどね。。。


唐人お吉のお墓

唐人お吉は本名「斉藤きち」といい、
天保12年11月10日、愛知県知多郡内海に、
舟大工・市兵衛の次女としてこの世に生をうけました。
4歳の時、家族が下田に移り住み、14歳で芸子となりました。
新内明烏のお吉と謳われるほどの評判と美貌でしたが、
それが奉公所の目に留まることとなり、
17歳の時、法外な年俸と引き替えに心ならずもアメリカ総領事タウンゼント・ハリスのもとへ
待妾として奉公にあがることとなります。
その後は、幕末、維新の動乱の中、芸子として流浪の果てに下田に戻り、
鶴松と暮らし、髪結業を始めますが、ほどなく離別。
さらに小料理屋「安直楼」を開業しますが、2年後に廃業しています。
「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑を浴びながら貧困の中に身を持ち崩し
明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます
波乱にみちた51年の生涯のあまりにも悲しい終幕でした。
~八幡山宝福寺 唐人お吉記念館HP
それでは下田を離れ、宿へ向かおう。
活魚料理 新田
静岡県下田市三丁目2−12
0558-22-1672
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