Bar White River 白河と石神井をこよなく愛する呑んだくれ・喰いだおれの日記
この日は、いつも利用している玉川上水駅から歩いてみようと思う。
まずは玉川上水沿いを東大和市駅方面へ向かう。

玉川上水は江戸時代に開削された上水路である。
以下は東京都水道局のHPより抜粋した「玉川上水の歴史」。
承応元(1652)年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立てました。設計書の検討及び実地調査の結果、工事請負人を庄右衛門、清右衛門兄弟に決定し、工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治が命ぜられました。
工事は、承応2(1653)年4月4日に着工し、わずか8か月後の11月15日(この年は閏年で6月が2度あるため8か月となります。)、羽村取水口から四谷大木戸までの素掘り(崩れの補強を行わずに掘削すること)による水路が完成しました。全長約43キロメートル、標高差はわずか約92メートルの緩勾配(緩い傾斜)です。羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜(りょう)線(尾根:谷に挟まれた山頂など高い部分の連なり)に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する、自然流下方式による導水路です。
翌年6月には虎の門まで地下に石樋、木樋による配水管を布設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の大地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水しました。
兄弟は褒章として玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。
以上はほぼ『上水記』の記述によりますが、『玉川上水起元』によれば、工事には2度の失敗があり、信綱の家臣で野火止用水の開削者安松金右衛門の設計により羽村に取水口を決定し、玉川上水成功に導いたとも言われています。

小平監視所
これより下流は昭和40年以降。水が途絶えていたが、
昭和61年に清流復活事業で水の流れがよみがえった。

上水小橋を降りていく。

鯉がいる。


水遊びができそうだ。


ここで玉川上水を離れ、東大和市駅へ拝島線沿いを歩く。

玉川上水車両基地の横を通る。

東大和市駅(西武拝島線)

今度は、かつて松平伊豆守信綱によって玉川上水から分流された野火止用水沿いを歩く。

いまやこの清流にはホタルが生息しているようだ。

遊歩道の支柱にもホタルのデザイン。

野火止用水の歴史~小平市HPより抜粋
野火止用水は、立川市を起点とし埼玉県新座市の平林寺を経て埼玉県志木市の新河岸川に至る全長約24Kmの用水路です。現在では「野火止」と書きますが、開削当初は野火留村(現在の新座市野火止)の名を取り、野火留用水と呼ばれていました。
開削の歴史は古く、承応4年(1655年)、徳川幕府老中の松平伊豆守信綱によって開削された用水路で、「伊豆殿掘」とも呼ばれています。
徳川家康が江戸城へ入府後、約50年たち江戸の人口増加による飲料水不足が問題となり、幕府は承応2年(1653年)に多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許可しました。総奉行は、老中松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負いましたが、この工事は難工事となり信綱は家臣の安松金右衛門・小畠助左衛門に補佐を命じ工事を続行させ、承応3年(1654年)に完成しました。
その功績により信綱は、関東ローム層の乾燥した台地のため生活用水に難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許可され、承応4年(1655年)に野火止用水が開通しました。この工事は、安松金右衛門に命じ、費用は三千両を要したといわれています。用水路は、素掘りにより開削されていますが、土地の低いところなどには、版築法などにより堤を築いたりして野火止の台地に引水されました。
ところが、昭和24年(1949年)頃から生活様式が変わり始め、生活排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題になりました。特に昭和38(1963年)頃から宅地化が進行し、用水への生活排水の排出が日常的におこなわれるようになりました。さらに昭和39年(1964年)に関東地方を大干ばつが襲い、東京が水不足になり野火止用水への分水が中止されました。昭和41年(1966年)、再度通水されるようになりますが水量が制限された為、水質汚染は改善されず昭和48年(1973年)には、東京都の水事情の悪化によりついに玉川上水からの取水が停止され、次第に用水路には蓋がされ暗渠化されていくようになったのです。
しかし、歴史的にも貴重な野火止用水をよみがえらせようとの住民の機運が高まり、東京都により昭和49年(1974年)に隣接する樹林地とともに歴史環境保全地域に指定され、下水処理水をさらに浄化した高度処理水を流水に活用する「清流復活事業」を実施し、昭和59年(1984年)に野火止用水に流水がよみがえり現在に至っています。

野火止用水沿いは遊歩道が整備されている。




西武国分寺線の踏切が見えてきた。

野火止用水開渠

このような狭い水路を渡る鉄道橋を「開渠(かいきょ)」というが、
この開渠は国分寺線の前身である川越鉄道のころにつくられており、
そのころをしのばせる赤煉瓦の橋脚が見える。

この周辺は西武拝島線・西武国分寺線・西武多摩湖線・西武新宿線が複雑に通っており、
西武線族でもよくわからないほどだ。
なぜこんな複雑怪奇な路線図になったかの説明はまた別の機会に譲る。


「八坂」の交差点にぶつかる。
ここはかつて「九道の辻」とよばれていた。
九道の辻は、先日歩いた旧鎌倉街道「上道」のほぼ中間で、
鎌倉まで十八里(72km)、前橋まで十八里(72km)の地点にあった。
江戸道・引股道・宮寺道・秩父道・御窪道・清戸道・奥州街道・大山街道・鎌倉街道
の九本の道がこの地で分岐していたのだ。
いまは七つの道が交わっている。
かつては「九」。
今は「七」。
でも、地名は「八」坂というのが面白い。

西武多摩湖線八坂駅を通り過ぎ、もう少しでゴールだ。

そう!
やっぱりこの日もゴールは銭湯(笑)

「桜湯」で汗を流し、スッキリ♪

そして、湯上がりはご褒美タイム(笑)
ビールとやみつき丼。
もちろん餃子も。


レモンチューハイも♪

中途半端なアイドルタイムでも営業しているチェーン店はこういうときに心強いぞ。

今回のウォーキングコースはとっても気に入った。
野火止用水をもっと北上してみたいし、
玉川上水を小金井方面へ歩いてもみたい。
もっと天気のいい日にまた歩いてみよっ♪
桜湯
東村山市萩山町3-15-1
042-391-0547
ぎょうざの満洲久米川南口店
東村山市栄町2丁目19−17 ニューハイツ久米川小町ビル 1F
042-395-6689
まずは玉川上水沿いを東大和市駅方面へ向かう。

玉川上水は江戸時代に開削された上水路である。
以下は東京都水道局のHPより抜粋した「玉川上水の歴史」。
承応元(1652)年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立てました。設計書の検討及び実地調査の結果、工事請負人を庄右衛門、清右衛門兄弟に決定し、工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治が命ぜられました。
工事は、承応2(1653)年4月4日に着工し、わずか8か月後の11月15日(この年は閏年で6月が2度あるため8か月となります。)、羽村取水口から四谷大木戸までの素掘り(崩れの補強を行わずに掘削すること)による水路が完成しました。全長約43キロメートル、標高差はわずか約92メートルの緩勾配(緩い傾斜)です。羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜(りょう)線(尾根:谷に挟まれた山頂など高い部分の連なり)に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する、自然流下方式による導水路です。
翌年6月には虎の門まで地下に石樋、木樋による配水管を布設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の大地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水しました。
兄弟は褒章として玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。
以上はほぼ『上水記』の記述によりますが、『玉川上水起元』によれば、工事には2度の失敗があり、信綱の家臣で野火止用水の開削者安松金右衛門の設計により羽村に取水口を決定し、玉川上水成功に導いたとも言われています。

小平監視所
これより下流は昭和40年以降。水が途絶えていたが、
昭和61年に清流復活事業で水の流れがよみがえった。

上水小橋を降りていく。

鯉がいる。


水遊びができそうだ。


ここで玉川上水を離れ、東大和市駅へ拝島線沿いを歩く。

玉川上水車両基地の横を通る。

東大和市駅(西武拝島線)

今度は、かつて松平伊豆守信綱によって玉川上水から分流された野火止用水沿いを歩く。

いまやこの清流にはホタルが生息しているようだ。

遊歩道の支柱にもホタルのデザイン。

野火止用水の歴史~小平市HPより抜粋
野火止用水は、立川市を起点とし埼玉県新座市の平林寺を経て埼玉県志木市の新河岸川に至る全長約24Kmの用水路です。現在では「野火止」と書きますが、開削当初は野火留村(現在の新座市野火止)の名を取り、野火留用水と呼ばれていました。
開削の歴史は古く、承応4年(1655年)、徳川幕府老中の松平伊豆守信綱によって開削された用水路で、「伊豆殿掘」とも呼ばれています。
徳川家康が江戸城へ入府後、約50年たち江戸の人口増加による飲料水不足が問題となり、幕府は承応2年(1653年)に多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許可しました。総奉行は、老中松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負いましたが、この工事は難工事となり信綱は家臣の安松金右衛門・小畠助左衛門に補佐を命じ工事を続行させ、承応3年(1654年)に完成しました。
その功績により信綱は、関東ローム層の乾燥した台地のため生活用水に難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許可され、承応4年(1655年)に野火止用水が開通しました。この工事は、安松金右衛門に命じ、費用は三千両を要したといわれています。用水路は、素掘りにより開削されていますが、土地の低いところなどには、版築法などにより堤を築いたりして野火止の台地に引水されました。
ところが、昭和24年(1949年)頃から生活様式が変わり始め、生活排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題になりました。特に昭和38(1963年)頃から宅地化が進行し、用水への生活排水の排出が日常的におこなわれるようになりました。さらに昭和39年(1964年)に関東地方を大干ばつが襲い、東京が水不足になり野火止用水への分水が中止されました。昭和41年(1966年)、再度通水されるようになりますが水量が制限された為、水質汚染は改善されず昭和48年(1973年)には、東京都の水事情の悪化によりついに玉川上水からの取水が停止され、次第に用水路には蓋がされ暗渠化されていくようになったのです。
しかし、歴史的にも貴重な野火止用水をよみがえらせようとの住民の機運が高まり、東京都により昭和49年(1974年)に隣接する樹林地とともに歴史環境保全地域に指定され、下水処理水をさらに浄化した高度処理水を流水に活用する「清流復活事業」を実施し、昭和59年(1984年)に野火止用水に流水がよみがえり現在に至っています。

野火止用水沿いは遊歩道が整備されている。




西武国分寺線の踏切が見えてきた。

野火止用水開渠

このような狭い水路を渡る鉄道橋を「開渠(かいきょ)」というが、
この開渠は国分寺線の前身である川越鉄道のころにつくられており、
そのころをしのばせる赤煉瓦の橋脚が見える。

この周辺は西武拝島線・西武国分寺線・西武多摩湖線・西武新宿線が複雑に通っており、
西武線族でもよくわからないほどだ。
なぜこんな複雑怪奇な路線図になったかの説明はまた別の機会に譲る。


「八坂」の交差点にぶつかる。
ここはかつて「九道の辻」とよばれていた。
九道の辻は、先日歩いた旧鎌倉街道「上道」のほぼ中間で、
鎌倉まで十八里(72km)、前橋まで十八里(72km)の地点にあった。
江戸道・引股道・宮寺道・秩父道・御窪道・清戸道・奥州街道・大山街道・鎌倉街道
の九本の道がこの地で分岐していたのだ。
いまは七つの道が交わっている。
かつては「九」。
今は「七」。
でも、地名は「八」坂というのが面白い。

西武多摩湖線八坂駅を通り過ぎ、もう少しでゴールだ。

そう!
やっぱりこの日もゴールは銭湯(笑)

「桜湯」で汗を流し、スッキリ♪

そして、湯上がりはご褒美タイム(笑)
ビールとやみつき丼。
もちろん餃子も。


レモンチューハイも♪

中途半端なアイドルタイムでも営業しているチェーン店はこういうときに心強いぞ。

今回のウォーキングコースはとっても気に入った。
野火止用水をもっと北上してみたいし、
玉川上水を小金井方面へ歩いてもみたい。
もっと天気のいい日にまた歩いてみよっ♪
桜湯
東村山市萩山町3-15-1
042-391-0547
ぎょうざの満洲久米川南口店
東村山市栄町2丁目19−17 ニューハイツ久米川小町ビル 1F
042-395-6689
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