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コメント

八重の桜を旅する⑫ 【蓮家寺・馬場都都古和氣神社@棚倉町】

「とら食堂」を出て、一路棚倉へ。

戊辰戦争関連の名所を巡るためだ。

まずは「蓮家寺(れんげじ)」へ。
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震災の影響で山門は木材で補強されている。
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蓮家寺は慶長8(1603)年、
この地を支配した徳川家康の代官彦坂小刑部の家臣念仏信者の蓮池主水と糟家彌兵衛が、
この地に浄土宗の寺がないことから、塙の僧秀哲上人を招き精舍を建立したことに始まる。

初めは阿弥陀寺と言ったが、間もなく開創の施主両氏の一字ずつをとり、蓮家寺となった。

その後は、棚倉城主となった内藤豊前守信照を筆頭に内藤家が厚く守り、
また徳川家光以後、7代の将軍からの庇護をうけ、
江戸時代には三門、本堂、鐘楼、観音堂、常念佛堂、十王堂、地蔵堂の
伽藍が整う壮大な寺院となり、棚倉城下の中心寺院となった。

浄土宗ホームページより


白河口の戦いで総督府参謀を務めた板垣退助が小峰城落城後、6月24日に棚倉城に進軍。
棚倉城は1日で陥落し、板垣退助はこの蓮家寺に1ヶ月ほど陣を置き、
落城後の戦後処理にあたったという。
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「弔魂の碑」
本来は「忠魂」とするのが常だが、
戊辰戦争に破れた棚倉藩は新政府軍への配慮から「弔」の字を用いた。
この石碑の揮毫は棚倉藩主阿部正功によるものだ。
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蓮家寺の銅鐘も古いもので、
正保4年(1647)、蓮家寺4世住職の尊譽上人の時に、
藩主の内藤豊前守信照公が寄進した銅鐘だそうだ。

鐘楼も建立当時のままで、貴重な江戸時代初期の建造物だったらしいが、震災で損壊し、
これは新しく建てられた鐘楼のようだ。
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これは以前の鐘楼の一部だろうか?
何だろう?どなたか教えてください。
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徳川将軍家から代々庇護を受けていたようだから、葵のご紋なのかな?
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土佐藩の足軽(公文力之介)の墓もある。
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次は「馬場都都古和氣神社(ばばつつこわけじんじゃ)」へ。

この神社の由緒は古い。

馬場都都古和氣神社は第12代景行天皇の御代、
日本武尊が奥羽鎮撫の際に都都古和氣神(味耜高彦根命・アヂスキタカヒコネノミコト)を
地主神として都々古山(白河市の通称建鉾山)に鉾を立てたのが始まりとされる。
その後、大同2(807)年坂上田村麻呂が現在の棚倉城址に社殿を造営、
日本武尊を相殿に配祀した。
さらに寛永2(1625)年、丹羽長重が棚倉城建築のため現在地に遷座させた。
~Wikipedia


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白河口の戦いで総督を務めた会津藩家老西郷頼母が、
明治8(1875)年から3年間ほどこの神社の宮司を務めているのだ。
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「八重の桜」で西郷頼母を演じた西田敏行のところはちゃんとマークされていた。
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ここは「陸奥国一宮」を称するが、
実は棚倉町にもうひとつある「八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)」も
「陸奥国一宮神社」を称しており、その経緯は不明のようだ。

宇都宮市と日光市の二荒山神社がそれぞれ「下野国一宮」を称している状況と類似している。
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雨が降り出した。
このころは一日のなかでも天気が変わりやすい不安定な日が続いていた。
あわてて引き返す。
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さて、ここでの3年間、西郷頼母はどんな思いで過ごしたのだろうか。
西郷家は代々家老職として会津松平家に仕え、頼母で9代目となる名家であったが、
幕末の動乱で頼母の人生も激変する。

1862(文久2)年、いわゆる文久の改革において藩主松平容保が京都守護職を拝命する。
当時の京は、尊皇攘夷運動が渦巻いており、これを鎮圧する京都守護職を引き受けることは、
尊攘派の恨みを買い、政争に巻き込まれる危険性をおおいに孕んでいた。

そのため頼母は京都守護職の拝命を断るべきだと主張したが、
会津藩藩祖保科正之から伝わる『家訓』
(一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。)
に縛られた容保は徳川家への忠誠心からこの職を受ける。

これにより頼母は国元での蟄居を命じられ、家老職も解任される。

戊辰戦争が勃発し、蟄居を解かれ家老に復職する。
当初は頼母をはじめ多くの家臣が新政府への恭順を示す意向であったが、
藩主容保親子の斬首と引き替えという要求は到底受け入れられず、
抗戦を決意。

そして西郷頼母は白河口の戦いで総督を務めることになる。
この戦いの激戦地となったのが稲荷山だ。ここには頼母の歌碑がある。

結局、この白河口の戦いで頼母らは惨敗。
これを足がかりに新政府軍は一気に会津へと攻め込むことになる。

会津鶴ヶ城に戻った頼母は再び恭順を説くが、受け入れられず、城を追われるが、
頼母が入城する前に頼母の母や妻子、一族21人が自害しており、
このことも会津戦争の悲劇として伝えられている。

頼母は、会津を離れたあと箱館で榎本武揚や土方歳三と合流し、奮戦している。
その後、捕縛され、明治5年に赦免。

以後、明治8年に前述の通り馬場都都古和氣神社の宮司となる。

そして、明治13年松平容保が日光東照宮となると西郷頼母は禰宜となり、
ここでかつて仕えた藩主と再会を果たしているのだ。
このあたりがなんともドラマチックだが、
この東照宮での2人の逸話というのがあまり伝わっていないように思う。
史料がないのだろうか。

そして、頼母は明治36年、74歳で会津若松で亡くなっている。

ちなみに「姿三四郎」のモデルとなったのは西郷四郎は頼母の養子志田四郎である。

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以前に馬場都都古和氣神社を訪れたことのあるカミさんからは
「ちゃんとムシ除けしていきなさいよっ!」と
アドバイスを受けていたのだが、ムシしたら、見事4ヶ所も刺されてしまった。

カミさんのアドバイスはちゃんと聞くもんだね。。。



蓮家寺
福島県東白川郡棚倉町棚倉新町129


馬場都都古和氣神社
福島県東白川郡棚倉町棚倉馬場39


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ばるべにー

震災前は白河あたりも通られていたんですね。

陸奥の玄関口である白河は歴史遺産の宝庫です。
もっと着目されてもいいのにと思っています。

そうですよね、幕末に活躍した人物は30代が多いですよね。
この時代の人々は身分や立場は違えど、みな志が崇高でした。
私も見習わなければと思います。

08

17

08:31

58酔い

国道49でした。m(_ _)m

08

16

13:05

58酔い

歴史を感じる古い墓石ですね。

震災前は仕事で東北によく行き白河も通過が多かったですが(汗)国道4号走りました。

まさに歴史の町ですね。

会津も国道43号で郡山からひたすら走ってましたよ。懐かしいです。

西郷頼母って戊辰戦争時38歳なんですね!容保公も31歳。自分も30代ですが比べると、、、情けなくなります。(笑)



08

16

13:02

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ばるべにー

Author:ばるべにー
「ばるべにー酒店」に並べたい日本酒
※思い出したら追加していきます

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   奈良萬(喜多方)
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   風が吹く(会津美里)
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