Bar White River 白河と石神井をこよなく愛する呑んだくれ・喰いだおれの日記
次は女石へ移動。
会津街道と仙台街道の分岐点であるこの地を拠点に東軍は小峰城奪還作戦を展開していた。
いまの国道4号線女石の交差点近くの脇道に「遊女志げ之墓」はひっそりとある。

遊女しげとは何者か。
越後三条生まれのしげは白河の妓楼坂田屋の遊女であった。
白河口の戦いの際に、西軍の長州藩士世良修蔵(奥羽鎮撫総督府下参謀)がしげをひいきにしていた。
あるとき、世良は危険が迫っていると察知し、世良は白河の地を去る。
しかし、「奥羽を皆敵と見て、武力をもって一挙に討伐する」と世良が書いた密書が露見し、
福島城下の金沢屋にいた世良は仙台藩士や福島藩士らに襲われ、その後阿武隈川で斬首されたのだ。

そんな世良と情を結び、世良の白河逃亡を導いたとされたしげは、
会津藩士に殺されてしまうのだ。

ところが、その会津藩士も坂田屋の下男によって仇討ちにあうというのだからすさまじい話だ。

こちらは聯芳寺。
ここには「福島藩十四人碑」がある。





近くには仙台藩士の碑もあったはずなのだが、場所がよくわからず断念した。
またの機会にしよう。
最後は、谷津田川を渡り、小南湖にある白河藩大名家墓所をたずねる。
歴代藩主の墓所は、八重の桜とは直接的には関係ないかも知れないが、
戊辰戦争で亡くなった二本松藩兵の碑が丹羽長重廟のそばに建立されているのだ。


小南湖ってここにあったんだ。
白河にいるときにはいつでも来られるやと思って、
こちらの方まで足を伸ばしたことがなかったのだ。

小南湖の横を抜けて森深くへと進んでいくと、
白河初代藩主丹羽長重公の御廟があらわれる。

息子の丹羽光重の代に二本松藩に移封となり、光重は初代二本松藩主となっている。
その関係から、戊辰戦争で亡くなった二本松藩士の石碑がここに建っているのであろう。


丹羽長重は、信長四天王のひとりとして活躍した丹羽長秀の子である。
長秀は、本能寺の変後の清洲会議にも参加し、秀吉支持を表明、賤ヶ岳の戦いでも功を上げている。
その息子である長重は、丹羽氏の勢力拡大を怖れた秀吉によって度々減封された。
そして関ヶ原の戦いでは西軍に与したため、戦後に一時改易されている。
ここから白河藩主にまで復活したのだからビックリだ!






こちらは松平直矩・基知の墓所だ。
(前日の記事にある藩主一覧を参照してください)





そして、小南湖の方へと戻り、少し離れた場所には松平清照の墓所がある。
清照は白河藩主松平忠弘の嫡男であったが、病弱で藩主にはなっていない。

墓石がひとつ倒れていた。
おそらく震災によるものだろうな・・・


小南湖周辺ははじめて訪ねたが、墓所に相応しい凜とした空気が漂い、
厳粛な空間であった。
市長は白河の歴史をもっと掘り起こそうと頑張っているらしく、
この歴代藩主の墓所一帯も今後もっと整備されていくであろう。
遊女志げの墓 白河市女石
聯芳寺 白河市向寺
白河藩主墓所 白河市円明寺
会津街道と仙台街道の分岐点であるこの地を拠点に東軍は小峰城奪還作戦を展開していた。
いまの国道4号線女石の交差点近くの脇道に「遊女志げ之墓」はひっそりとある。

遊女しげとは何者か。
越後三条生まれのしげは白河の妓楼坂田屋の遊女であった。
白河口の戦いの際に、西軍の長州藩士世良修蔵(奥羽鎮撫総督府下参謀)がしげをひいきにしていた。
あるとき、世良は危険が迫っていると察知し、世良は白河の地を去る。
しかし、「奥羽を皆敵と見て、武力をもって一挙に討伐する」と世良が書いた密書が露見し、
福島城下の金沢屋にいた世良は仙台藩士や福島藩士らに襲われ、その後阿武隈川で斬首されたのだ。

そんな世良と情を結び、世良の白河逃亡を導いたとされたしげは、
会津藩士に殺されてしまうのだ。

ところが、その会津藩士も坂田屋の下男によって仇討ちにあうというのだからすさまじい話だ。

こちらは聯芳寺。
ここには「福島藩十四人碑」がある。





近くには仙台藩士の碑もあったはずなのだが、場所がよくわからず断念した。
またの機会にしよう。
最後は、谷津田川を渡り、小南湖にある白河藩大名家墓所をたずねる。
歴代藩主の墓所は、八重の桜とは直接的には関係ないかも知れないが、
戊辰戦争で亡くなった二本松藩兵の碑が丹羽長重廟のそばに建立されているのだ。


小南湖ってここにあったんだ。
白河にいるときにはいつでも来られるやと思って、
こちらの方まで足を伸ばしたことがなかったのだ。

小南湖の横を抜けて森深くへと進んでいくと、
白河初代藩主丹羽長重公の御廟があらわれる。

息子の丹羽光重の代に二本松藩に移封となり、光重は初代二本松藩主となっている。
その関係から、戊辰戦争で亡くなった二本松藩士の石碑がここに建っているのであろう。


丹羽長重は、信長四天王のひとりとして活躍した丹羽長秀の子である。
長秀は、本能寺の変後の清洲会議にも参加し、秀吉支持を表明、賤ヶ岳の戦いでも功を上げている。
その息子である長重は、丹羽氏の勢力拡大を怖れた秀吉によって度々減封された。
そして関ヶ原の戦いでは西軍に与したため、戦後に一時改易されている。
ここから白河藩主にまで復活したのだからビックリだ!






こちらは松平直矩・基知の墓所だ。
(前日の記事にある藩主一覧を参照してください)





そして、小南湖の方へと戻り、少し離れた場所には松平清照の墓所がある。
清照は白河藩主松平忠弘の嫡男であったが、病弱で藩主にはなっていない。

墓石がひとつ倒れていた。
おそらく震災によるものだろうな・・・


小南湖周辺ははじめて訪ねたが、墓所に相応しい凜とした空気が漂い、
厳粛な空間であった。
市長は白河の歴史をもっと掘り起こそうと頑張っているらしく、
この歴代藩主の墓所一帯も今後もっと整備されていくであろう。
遊女志げの墓 白河市女石
聯芳寺 白河市向寺
白河藩主墓所 白河市円明寺
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