Bar White River 白河と石神井をこよなく愛する呑んだくれ・喰いだおれの日記
長女のみそたんめん。
予想通り、食べきれず1/3が私に回って来た。
ここで別添えにしたにんにくの出番というわけだ(笑)
茶釜食堂を出て、いったん自宅に帰る。
娘とカミさんはとっととどこかへ行ってしまう。
私はちゃんとオーラルケアをしたのち、長男と歴史散策へと出直す。
まずは白河駅。
いつ見てもこの駅舎は美しい。

そして、小峰城へ。
小峰城は、南北朝時代の1340年に結城親朝が小峰ヶ岡に築城したのがはじまりとされ、
徳川家光の時代にあたる1632年に初代藩主丹羽長重が4年の歳月を費やして完成させた梯郭式の平山城である。
その後、譜代・親藩7家21代の大名が小峰城に居城した。
いまでも市街地のあちこちに残るクランク状の道路は、
まさに白河が城下町であった名残である。
しかし、これだけ大名家が変わっているので、
上杉や前田、島津のような外様大名の領地に見受けられる
いわゆる「お殿様文化」のようなものは白河からは感じられない。
■丹羽家 外様 10万石 (1627年~1643年)
長重(ながしげ)〔従三位・加賀守、参議〕
光重(みつしげ)〔従四位下・左京大夫、侍従〕
■松平〔榊原〕家 譜代 14万石 (1643年~1649年)
忠次(ただつぐ)〔従四位下・式部大輔、侍従〕
■本多家 譜代 12万石 (1649年~1681年)
忠義(ただよし)〔従五位下・能登守〕
忠平(ただひら)〔従四位下・能登守〕
■松平〔奥平〕家 親藩 15万石 (1681年~1692年)
忠弘(ただひろ)〔従四位下・下総守、侍従〕
■松平〔越前〕家 親藩 15万石 (1692年~1741年)
直矩(なおのり)〔従四位下・大和守、侍従〕
基知(もとちか)〔従四位下・大和守、侍従〕
義知(よしちか)〔従四位下・大和守、侍従〕
■松平〔久松〕家 親藩 11万石 (1741年~1823年)
定賢(さだよし)〔従四位下・越中守〕
定邦(さだくに)〔従四位下・越中守〕
定信(さだのぶ)〔従四位下・越中守、左少将 老中首座〕
定永(さだなが)〔従四位下・越中守〕
■阿部家 譜代 10万石 (1823年~1866年、1868年)
正権(まさのり)〔官位官職なし〕
正篤(まさあつ)〔従五位下・飛騨守〕
正瞭(まさあきら)〔従五位下・能登守〕
正備(まさかた)〔従五位下・能登守〕
正定(まささだ)〔官位官職なし〕
正耆(まさひさ)〔従四位下・播磨守、侍従〕
正外(まさと)〔従四位下・豊後守、侍従 老中〕
正静(まさきよ)〔従五位下・美作守〕
さてさて、「八重の桜」でこれから登場してくる戊辰戦争(1868)のときには
小峰城はどうなっていたのだろうか。
このとき藩主阿部正静は棚倉藩に移封となっており、
小峰城は藩主不在の空き城だった。
新政府指揮のもと二本松藩兵が一時駐留していたが、
会津藩が占拠し、1868年閏4月22日に斎藤一ら新撰組130人、
26日には白河口総督会津藩家老西郷頼母・副総督横山主税らが会津藩兵が入城した。
東軍(旧幕府軍)約2500人に対し、西軍(新政府軍)は700人ほどと言われるが、
5月1日に西軍の猛攻撃を受け小峰城は落城。
落城後も7月末まで白河では戦闘状態が続き、
東軍927人、西軍113人の戦死者が出たとされている。
東軍は、奥州の玄関口である白河小峰城が陥落し、
白河口の戦いに敗れたことによって大きなショックを受けた。
この敗戦によってその後の戦局の行く末が結したと言っても過言ではない。
この白河口の戦いでほとんどを焼失した小峰城は、
約120年の時を経て1991(平成3)年に三重櫓、
1994(平成6)年に前御門が江戸時代の絵図に基づき忠実に木造で復元された。
そして、2010(平成22)年にはその歴史的な重要性が評価され、国指定史跡となった。
白河のシンボルとして愛される小峰城だが、東日本大震災では大きな被害を受けた。
石垣崩落などのためフェンスで囲まれ、本丸への立ち入りはいまなおできない。

歴代藩主も草葉の陰で心配しているに違いない。

小峰シロも心配しているだろう。~小峰シロ公式サイト

なんとも痛々しい姿だ。





復旧工事もはじまり、元の美しい小峰城の姿に戻るまでもうしばらくの辛抱だ。




白河集古苑は残念ながらお休みで入れず。。。

まだまだ雪が残る那須岳を望みながら小峰城をあとにする。


小峰城の東側にある鎮護神山に行く。
ここには戊辰戦争で亡くなった薩摩藩の戦死者の墓がある。


各地(三春町・いわき平・白河の長寿院・白河市松並)に埋葬されていたものを
1915(大正4)年、鎮護神山に合葬したのである。


この碑の文字は松方正義によるものらしい。
松方正義は薩摩藩出身で2度首相の座についている。
首相としてのキャリアよりも
大蔵大臣としておこなった「松方財政」・「松方デフレ」・「日本銀行設立」の方が有名だろう。


石碑の下には戦死者の名前が書かれている。
右から4人目にある「武川直枝」とは元新撰組隊士清原清のことで、
新撰組も含む東軍との戦闘で稲荷山において戦死した。

うーむ、今日は食べ物ネタ一切なしで真剣に書いてしまったぞ。
というのも最近、白河市まちづくり推進課のみなさんが
このブログを愛読してくださっていると人づてに伺ったので、
「こりゃ変なことは書けないぞ」といつも以上に気合いを入れたのだ(笑)
歴史好きの長男は嫌な顔ひとつせずついてきてくれるので楽しい。
まだまだ巡るぞぉー
予想通り、食べきれず1/3が私に回って来た。
ここで別添えにしたにんにくの出番というわけだ(笑)
茶釜食堂を出て、いったん自宅に帰る。
娘とカミさんはとっととどこかへ行ってしまう。
私はちゃんとオーラルケアをしたのち、長男と歴史散策へと出直す。
まずは白河駅。
いつ見てもこの駅舎は美しい。

そして、小峰城へ。
小峰城は、南北朝時代の1340年に結城親朝が小峰ヶ岡に築城したのがはじまりとされ、
徳川家光の時代にあたる1632年に初代藩主丹羽長重が4年の歳月を費やして完成させた梯郭式の平山城である。
その後、譜代・親藩7家21代の大名が小峰城に居城した。
いまでも市街地のあちこちに残るクランク状の道路は、
まさに白河が城下町であった名残である。
しかし、これだけ大名家が変わっているので、
上杉や前田、島津のような外様大名の領地に見受けられる
いわゆる「お殿様文化」のようなものは白河からは感じられない。
■丹羽家 外様 10万石 (1627年~1643年)
長重(ながしげ)〔従三位・加賀守、参議〕
光重(みつしげ)〔従四位下・左京大夫、侍従〕
■松平〔榊原〕家 譜代 14万石 (1643年~1649年)
忠次(ただつぐ)〔従四位下・式部大輔、侍従〕
■本多家 譜代 12万石 (1649年~1681年)
忠義(ただよし)〔従五位下・能登守〕
忠平(ただひら)〔従四位下・能登守〕
■松平〔奥平〕家 親藩 15万石 (1681年~1692年)
忠弘(ただひろ)〔従四位下・下総守、侍従〕
■松平〔越前〕家 親藩 15万石 (1692年~1741年)
直矩(なおのり)〔従四位下・大和守、侍従〕
基知(もとちか)〔従四位下・大和守、侍従〕
義知(よしちか)〔従四位下・大和守、侍従〕
■松平〔久松〕家 親藩 11万石 (1741年~1823年)
定賢(さだよし)〔従四位下・越中守〕
定邦(さだくに)〔従四位下・越中守〕
定信(さだのぶ)〔従四位下・越中守、左少将 老中首座〕
定永(さだなが)〔従四位下・越中守〕
■阿部家 譜代 10万石 (1823年~1866年、1868年)
正権(まさのり)〔官位官職なし〕
正篤(まさあつ)〔従五位下・飛騨守〕
正瞭(まさあきら)〔従五位下・能登守〕
正備(まさかた)〔従五位下・能登守〕
正定(まささだ)〔官位官職なし〕
正耆(まさひさ)〔従四位下・播磨守、侍従〕
正外(まさと)〔従四位下・豊後守、侍従 老中〕
正静(まさきよ)〔従五位下・美作守〕
さてさて、「八重の桜」でこれから登場してくる戊辰戦争(1868)のときには
小峰城はどうなっていたのだろうか。
このとき藩主阿部正静は棚倉藩に移封となっており、
小峰城は藩主不在の空き城だった。
新政府指揮のもと二本松藩兵が一時駐留していたが、
会津藩が占拠し、1868年閏4月22日に斎藤一ら新撰組130人、
26日には白河口総督会津藩家老西郷頼母・副総督横山主税らが会津藩兵が入城した。
東軍(旧幕府軍)約2500人に対し、西軍(新政府軍)は700人ほどと言われるが、
5月1日に西軍の猛攻撃を受け小峰城は落城。
落城後も7月末まで白河では戦闘状態が続き、
東軍927人、西軍113人の戦死者が出たとされている。
東軍は、奥州の玄関口である白河小峰城が陥落し、
白河口の戦いに敗れたことによって大きなショックを受けた。
この敗戦によってその後の戦局の行く末が結したと言っても過言ではない。
この白河口の戦いでほとんどを焼失した小峰城は、
約120年の時を経て1991(平成3)年に三重櫓、
1994(平成6)年に前御門が江戸時代の絵図に基づき忠実に木造で復元された。
そして、2010(平成22)年にはその歴史的な重要性が評価され、国指定史跡となった。
白河のシンボルとして愛される小峰城だが、東日本大震災では大きな被害を受けた。
石垣崩落などのためフェンスで囲まれ、本丸への立ち入りはいまなおできない。

歴代藩主も草葉の陰で心配しているに違いない。

小峰シロも心配しているだろう。~小峰シロ公式サイト

なんとも痛々しい姿だ。





復旧工事もはじまり、元の美しい小峰城の姿に戻るまでもうしばらくの辛抱だ。




白河集古苑は残念ながらお休みで入れず。。。

まだまだ雪が残る那須岳を望みながら小峰城をあとにする。


小峰城の東側にある鎮護神山に行く。
ここには戊辰戦争で亡くなった薩摩藩の戦死者の墓がある。


各地(三春町・いわき平・白河の長寿院・白河市松並)に埋葬されていたものを
1915(大正4)年、鎮護神山に合葬したのである。


この碑の文字は松方正義によるものらしい。
松方正義は薩摩藩出身で2度首相の座についている。
首相としてのキャリアよりも
大蔵大臣としておこなった「松方財政」・「松方デフレ」・「日本銀行設立」の方が有名だろう。


石碑の下には戦死者の名前が書かれている。
右から4人目にある「武川直枝」とは元新撰組隊士清原清のことで、
新撰組も含む東軍との戦闘で稲荷山において戦死した。

うーむ、今日は食べ物ネタ一切なしで真剣に書いてしまったぞ。
というのも最近、白河市まちづくり推進課のみなさんが
このブログを愛読してくださっていると人づてに伺ったので、
「こりゃ変なことは書けないぞ」といつも以上に気合いを入れたのだ(笑)
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まだまだ巡るぞぉー
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