Bar White River 白河と石神井をこよなく愛する呑んだくれ・喰いだおれの日記
あれこれたまっていた雑用が片付いたので、
駅に置いてあった「戊辰としらかわ」というパンフレットを参考に、
白河の歴史散策にでかけることにする。
陸奥の玄関口である白河は、名所・旧跡が数多く残る歴史の話題に事欠かない地である。
最近は、白河市もこの歴史的財産を見直し、
観光や市の活性化に結びつけようと頑張っているようだ。
確かに白河って歴史上の様々な場面で登場するんだよね。
古代には「白河の関」が築かれ蝦夷との戦いの最前線基地の役割を担った。
中世になると白河の関は廃れてしまうが、
古関として西行や宗祇などが訪れる「歌枕の地」となった。
近世には上杉景勝の軍が徳川家康の軍勢を白河で迎え撃つはずであったが、
石田三成の挙兵によって家康が「小山評定」で引き返してしまい、
「幻の白河決戦」となった。
諸説あるが、一説ではそのときに上杉方が築いたとされる「防塁跡」が皮籠に残されている。
江戸時代には白河藩主松平定信が「寛政の改革」を主導した。
江戸の三大改革とよばれる「寛政の改革」は小学校でも習うことがらだけに、
定信のおかげで白河の地名は広く知られるようになったといえよう。
そして、幕末。
白河はまたしても歴史的に重要な場面で登場する。
戊辰戦争での「白河口の戦い」だ。
会津・仙台・棚倉藩や新撰組で構成される東軍と
明治新政府の西軍が白河で激突!
この白河口の戦いこそ、その後の会津藩の悲劇へとつながる序章になるのである。
大河ドラマ「八重の桜」では、この白河口の戦いも当然出てくるであろう。
これから時々前述のパンフレットをたよりに、
白河にある「八重の桜」ゆかりの地を旅してみようと思う。
いまはベイシアがある一帯が「白河口の戦い」での激戦地となり、
東軍が陣を張った稲荷山のふもとに東軍、西軍ゆかりの石碑がならんでいる。

まずは、「会津藩墓所」をたずねる。
東軍は1868年5月1日の戦いで約700名の戦死者を出した。

その戦死者を弔ったのがこの「戦死墓」だ。

「戦死墓」のとなりにあるのが「銷魂碑」だ。

こちらは白河口の戦いで副総督であった横山主税をはじめとした304名の名が刻まれている。
揮毫は会津藩主松平容保によるものだ。
(綾野剛演じる松平容保はなかなかいいよね♪)

そして、同じ墓所にもうひとつ「田辺軍次之墓」がある。
横の案内板には次のように書かれている。
会津藩士田辺軍次は、戊辰の役、白河口の戦いで、
東軍が敗れたのは、のちに白河県から白坂町取締りを任命された大平八郎が、
西軍の道案内をしたためであると信じ、この遺恨をはらすため、
斗南藩(青森県下北郡)から約一ヶ月を要して、白坂に着いた。
白坂宿鶴屋にて、八郎を斬殺し、自からもその場で屠腹して果てた。
八郎の養子直之助は義父の仇である軍次の墓を建て、白坂観音寺に葬った。
のち会津会によりこの地に改葬された。
戊辰戦争がもたらした悲劇の一駒である。
操刃容儀居士 享年二十一才

道路を渡ると「長州大垣藩戦死六名墓」がある。
白河口の戦いの緒戦は1868(慶應四)年閏4月25日。
西軍(薩摩・長州・大垣藩)13名が払暁奇襲したが捕らえられ、大手門で斬首される。

大正四年に薩摩藩の7名は薩摩藩合葬墓に改装され、いまは六名の墓となっているようだ。

この墓には明治天皇が明治九年に行幸し、
東宮嘉仁親王(のちの大正天皇)が明治四十一年に行啓していたとは驚いたが、
このときはまだ13名の墓だったということだ。

そして、会津藩陣地のあった稲荷山に登ってみる。
いまは遊具も置かれ、公園になっているんだ。
はじめて登ったよ。

そして頂上には白河口の戦いで総督を務めた会津藩家老西郷頼母の歌碑がある。

西郷頼母の話はまた別の機会にするが、
福島県出身の西田敏行がどう演じていくのか楽しみだ。


うらやまし 角をかくしつ又のべつ 心のままに身をもかくしつ

東軍はこの稲荷山の上から、小丸山に陣を張る西軍と対峙したんだな。

小丸山ってどれだ?(苦笑)

何事もちゃんと予習しなくちゃダメだね。。。
よし、「白河口の戦い」を勉強しに「楽蔵」に行こっ♪
駅に置いてあった「戊辰としらかわ」というパンフレットを参考に、
白河の歴史散策にでかけることにする。
陸奥の玄関口である白河は、名所・旧跡が数多く残る歴史の話題に事欠かない地である。
最近は、白河市もこの歴史的財産を見直し、
観光や市の活性化に結びつけようと頑張っているようだ。
確かに白河って歴史上の様々な場面で登場するんだよね。
古代には「白河の関」が築かれ蝦夷との戦いの最前線基地の役割を担った。
中世になると白河の関は廃れてしまうが、
古関として西行や宗祇などが訪れる「歌枕の地」となった。
近世には上杉景勝の軍が徳川家康の軍勢を白河で迎え撃つはずであったが、
石田三成の挙兵によって家康が「小山評定」で引き返してしまい、
「幻の白河決戦」となった。
諸説あるが、一説ではそのときに上杉方が築いたとされる「防塁跡」が皮籠に残されている。
江戸時代には白河藩主松平定信が「寛政の改革」を主導した。
江戸の三大改革とよばれる「寛政の改革」は小学校でも習うことがらだけに、
定信のおかげで白河の地名は広く知られるようになったといえよう。
そして、幕末。
白河はまたしても歴史的に重要な場面で登場する。
戊辰戦争での「白河口の戦い」だ。
会津・仙台・棚倉藩や新撰組で構成される東軍と
明治新政府の西軍が白河で激突!
この白河口の戦いこそ、その後の会津藩の悲劇へとつながる序章になるのである。
大河ドラマ「八重の桜」では、この白河口の戦いも当然出てくるであろう。
これから時々前述のパンフレットをたよりに、
白河にある「八重の桜」ゆかりの地を旅してみようと思う。
いまはベイシアがある一帯が「白河口の戦い」での激戦地となり、
東軍が陣を張った稲荷山のふもとに東軍、西軍ゆかりの石碑がならんでいる。

まずは、「会津藩墓所」をたずねる。
東軍は1868年5月1日の戦いで約700名の戦死者を出した。

その戦死者を弔ったのがこの「戦死墓」だ。

「戦死墓」のとなりにあるのが「銷魂碑」だ。

こちらは白河口の戦いで副総督であった横山主税をはじめとした304名の名が刻まれている。
揮毫は会津藩主松平容保によるものだ。
(綾野剛演じる松平容保はなかなかいいよね♪)

そして、同じ墓所にもうひとつ「田辺軍次之墓」がある。
横の案内板には次のように書かれている。
会津藩士田辺軍次は、戊辰の役、白河口の戦いで、
東軍が敗れたのは、のちに白河県から白坂町取締りを任命された大平八郎が、
西軍の道案内をしたためであると信じ、この遺恨をはらすため、
斗南藩(青森県下北郡)から約一ヶ月を要して、白坂に着いた。
白坂宿鶴屋にて、八郎を斬殺し、自からもその場で屠腹して果てた。
八郎の養子直之助は義父の仇である軍次の墓を建て、白坂観音寺に葬った。
のち会津会によりこの地に改葬された。
戊辰戦争がもたらした悲劇の一駒である。
操刃容儀居士 享年二十一才

道路を渡ると「長州大垣藩戦死六名墓」がある。
白河口の戦いの緒戦は1868(慶應四)年閏4月25日。
西軍(薩摩・長州・大垣藩)13名が払暁奇襲したが捕らえられ、大手門で斬首される。

大正四年に薩摩藩の7名は薩摩藩合葬墓に改装され、いまは六名の墓となっているようだ。

この墓には明治天皇が明治九年に行幸し、
東宮嘉仁親王(のちの大正天皇)が明治四十一年に行啓していたとは驚いたが、
このときはまだ13名の墓だったということだ。

そして、会津藩陣地のあった稲荷山に登ってみる。
いまは遊具も置かれ、公園になっているんだ。
はじめて登ったよ。

そして頂上には白河口の戦いで総督を務めた会津藩家老西郷頼母の歌碑がある。

西郷頼母の話はまた別の機会にするが、
福島県出身の西田敏行がどう演じていくのか楽しみだ。


うらやまし 角をかくしつ又のべつ 心のままに身をもかくしつ

東軍はこの稲荷山の上から、小丸山に陣を張る西軍と対峙したんだな。

小丸山ってどれだ?(苦笑)

何事もちゃんと予習しなくちゃダメだね。。。
よし、「白河口の戦い」を勉強しに「楽蔵」に行こっ♪
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つきあか
稲荷山公園っちゃ小学生のころの遊び場でした(^人^)町内会の運動会や祭りの山車引きでお菓子くばられたのもここだったなあ(^-^)20年ぶりに現在の公園みせてくれてありがとうございましたあ
02
05
20:23
ばるべにー
いえいえ、喜んでいただけたなら嬉しいです。
でも、それならばもっと公園の様子を撮っておけばよかったですね。
02
08
21:11