Bar White River 白河と石神井をこよなく愛する呑んだくれ・喰いだおれの日記
伊那から高遠まではそう遠くない。
15分ほど走らせると高遠藩の城下町に到着だ。
◆高遠藩(コトバンクより引用)
江戸時代、信濃国伊那郡高遠(現、長野県伊那市高遠町)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。
藩校は進徳館。
当地は、戦国時代に諏訪氏の一族高遠氏が治めていたが、武田信玄に滅ぼされた。
その武田氏も1582年(天正12)に織田信忠に攻められて落城。
1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いを経て2万5000石で保科正光が入り、高遠藩が成立した。
1615年(元和1)に5000石加増。
3代将軍徳川家光の弟で保科正光の養子となった保科正之は1636年(寛永13)、
20万石に加増され出羽国山形藩に移封となった。
入れ替わりで山形から鳥居忠春が3万200石で入ったが、
鳥居氏は2代で89年(元禄2)に改易され、高遠藩は廃藩となった。
天領となったあと、1691年に摂津国富田林藩から内藤清枚が3万3000石で入り、
以後明治維新まで内藤氏8代が続いた。
2代藩主頼卿の1714年(正徳))に、江戸城大奥女中の絵島が当地に配流されている(絵島事件)。
1871年(明治4)の廃藩置県で高遠県となり、その後筑摩県を経て76年長野県に編入された。
そんな高遠藩の歴史を勉強しようと、
高遠城址公園にある歴史博物館にまずは向かったが、休館日。

博物館の前にはこんな幟が立っていた。

そして、保科正之とその生母お静の石像が並び立っていた。

保科正之は2代将軍徳川秀忠の四男である。
ということは3代将軍家光の異母弟になる。
しかし、正之(幼名幸松)は正室の知らぬ庶子であったため、
武田信玄の次女である見性院に預けられ、そこで生まれた幸松はそのまま見性院に養育された。
このことははわずかな秀忠側近しか知らないことであった。
その後1617年に、見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主の保科正光が預かり、
正光の子として養育される。
正光にはすでに養子として左源太という男子がいたが、
正光は正之を後継者に指名し、1631年に正之が高遠藩2代目藩主となる。
その後、正之は1636年に出羽山形藩20万石を拝領し、
さらには1643年に陸奥会津藩23万石をの大名となるのである。
正之の長兄である家光が正之の存在を知ったのは、お忍びで目黒のお寺に参詣した折のようで、
以後家光は正之をことのほか大事にしたそうだ。
家光は臨終の枕頭に正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残したという。
これに感銘した正之は『会津家訓十五箇条』を定めた。
第一条
会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、
藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」
藩主・藩士はこれを忠実に守った。
しかし、この『家訓』こそが幕末の会津藩の悲劇につながるとは
正之は思ってもみなかったことであろう。



高遠城址公園周辺を散策する。






高遠の町に戻ると、城下町らしい古いお店が並ぶ。
そのなかに酒蔵を発見!

「黒松仙醸」の蔵だ。

見学したかったが、閉まっている。
今日はどこもかしこもお休みにぶつかるようだ(笑)

高遠といえば、高遠そば。
保科正之が高遠のそばを会津にも広めたので、
会津でも大内宿の三澤屋のように高遠そばは有名である。
高遠で本場の高遠そばを食べようかと思ったのだが、
「おそばなら伊那にある『こやぶ』がおいしいですよ」と
例のレンタカーお兄さんの情報もあり、
伊那市街に戻ってご推薦の「こやぶ」へ向かう。

一見、カレー丼の上にグリンピースがのって出てくるような
よくあるフツーのおそば屋さんのようだが・・・・・・

店に入ると立派な蕎麦打ちコーナーがある。

メニューにはそばしかない。
カレー丼も天丼もない。
これは期待できるかも♪

もりそばを注文し、しばし待つ。

そして、もりそばが2段重ねで登場。

太めの田舎蕎麦だが、コシが強く、香りもいい。

薬味に添えられた蕎麦味噌が美味い。

そば湯も濃厚であったまる。

ソースカツ丼にもりそば食べて、私のおなかも↓こんな感じだ(笑)

レンタカーを返しに行き、お兄さんにお礼を言う。
「『青い塔』はお休みだったので『飯島』でソースカツ丼を食べて、
『こやぶ』でも蕎麦食べましたよ。どっちも美味しかったです!」
お兄さんも嬉しそうな顔をしていたが、
「ソースカツ丼食べたのに、蕎麦まで食べたんですかぁ!」という
ややあきれた目をしていた(笑)
すっかり満腹の私は帰りの飯田線と中央線はずーっと爆睡だったのだ。。。
そば処 こやぶ
長野県伊那市中央区中央通り4498-6
0265-72-0333
そうそう、「更科そば」の「科」って保科正之の「科」らしい。
そんな話題はまたいずれ・・・。
15分ほど走らせると高遠藩の城下町に到着だ。
◆高遠藩(コトバンクより引用)
江戸時代、信濃国伊那郡高遠(現、長野県伊那市高遠町)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。
藩校は進徳館。
当地は、戦国時代に諏訪氏の一族高遠氏が治めていたが、武田信玄に滅ぼされた。
その武田氏も1582年(天正12)に織田信忠に攻められて落城。
1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いを経て2万5000石で保科正光が入り、高遠藩が成立した。
1615年(元和1)に5000石加増。
3代将軍徳川家光の弟で保科正光の養子となった保科正之は1636年(寛永13)、
20万石に加増され出羽国山形藩に移封となった。
入れ替わりで山形から鳥居忠春が3万200石で入ったが、
鳥居氏は2代で89年(元禄2)に改易され、高遠藩は廃藩となった。
天領となったあと、1691年に摂津国富田林藩から内藤清枚が3万3000石で入り、
以後明治維新まで内藤氏8代が続いた。
2代藩主頼卿の1714年(正徳))に、江戸城大奥女中の絵島が当地に配流されている(絵島事件)。
1871年(明治4)の廃藩置県で高遠県となり、その後筑摩県を経て76年長野県に編入された。
そんな高遠藩の歴史を勉強しようと、
高遠城址公園にある歴史博物館にまずは向かったが、休館日。

博物館の前にはこんな幟が立っていた。

そして、保科正之とその生母お静の石像が並び立っていた。

保科正之は2代将軍徳川秀忠の四男である。
ということは3代将軍家光の異母弟になる。
しかし、正之(幼名幸松)は正室の知らぬ庶子であったため、
武田信玄の次女である見性院に預けられ、そこで生まれた幸松はそのまま見性院に養育された。
このことははわずかな秀忠側近しか知らないことであった。
その後1617年に、見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主の保科正光が預かり、
正光の子として養育される。
正光にはすでに養子として左源太という男子がいたが、
正光は正之を後継者に指名し、1631年に正之が高遠藩2代目藩主となる。
その後、正之は1636年に出羽山形藩20万石を拝領し、
さらには1643年に陸奥会津藩23万石をの大名となるのである。
正之の長兄である家光が正之の存在を知ったのは、お忍びで目黒のお寺に参詣した折のようで、
以後家光は正之をことのほか大事にしたそうだ。
家光は臨終の枕頭に正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残したという。
これに感銘した正之は『会津家訓十五箇条』を定めた。
第一条
会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、
藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」
藩主・藩士はこれを忠実に守った。
しかし、この『家訓』こそが幕末の会津藩の悲劇につながるとは
正之は思ってもみなかったことであろう。



高遠城址公園周辺を散策する。






高遠の町に戻ると、城下町らしい古いお店が並ぶ。
そのなかに酒蔵を発見!

「黒松仙醸」の蔵だ。

見学したかったが、閉まっている。
今日はどこもかしこもお休みにぶつかるようだ(笑)

高遠といえば、高遠そば。
保科正之が高遠のそばを会津にも広めたので、
会津でも大内宿の三澤屋のように高遠そばは有名である。
高遠で本場の高遠そばを食べようかと思ったのだが、
「おそばなら伊那にある『こやぶ』がおいしいですよ」と
例のレンタカーお兄さんの情報もあり、
伊那市街に戻ってご推薦の「こやぶ」へ向かう。

一見、カレー丼の上にグリンピースがのって出てくるような
よくあるフツーのおそば屋さんのようだが・・・・・・

店に入ると立派な蕎麦打ちコーナーがある。

メニューにはそばしかない。
カレー丼も天丼もない。
これは期待できるかも♪

もりそばを注文し、しばし待つ。

そして、もりそばが2段重ねで登場。

太めの田舎蕎麦だが、コシが強く、香りもいい。

薬味に添えられた蕎麦味噌が美味い。

そば湯も濃厚であったまる。

ソースカツ丼にもりそば食べて、私のおなかも↓こんな感じだ(笑)

レンタカーを返しに行き、お兄さんにお礼を言う。
「『青い塔』はお休みだったので『飯島』でソースカツ丼を食べて、
『こやぶ』でも蕎麦食べましたよ。どっちも美味しかったです!」
お兄さんも嬉しそうな顔をしていたが、
「ソースカツ丼食べたのに、蕎麦まで食べたんですかぁ!」という
ややあきれた目をしていた(笑)
すっかり満腹の私は帰りの飯田線と中央線はずーっと爆睡だったのだ。。。
そば処 こやぶ
長野県伊那市中央区中央通り4498-6
0265-72-0333
そうそう、「更科そば」の「科」って保科正之の「科」らしい。
そんな話題はまたいずれ・・・。
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