Bar White River 白河と石神井をこよなく愛する呑んだくれ・喰いだおれの日記
こどもたちとカミさんは久しぶりにあった友達と出かけてしまったので、
『登龍』の23BYをまだじっくり飲んでいないことを思いだし、益子酒店へ伺う。

店主とあれこれ日本酒談義をしていたら、「登龍」だけでなく、
「金紋会津」の「山の井 雄町」買っちゃった♪


「登龍」は火入れと生酒どちらを買おうか迷ったが、生酒はあと僅かと聞き、
生酒にする。
この「山の井 雄町」は若い蔵人がはじめて醸したお酒らしいが、なかなかの出来映えというから
飲むのが楽しみだ☆

しまった!
この足でラーメンを食べに行こうと思っていたが、
猛暑の車中に日本酒放置は避けたい。
クーラーボックスを載せていればよかったが・・・
仕方なく、一度自宅へ戻り出直す。
そして、向かったのは「要屋」だ。



テーブルマットに「ギョーザ 値下げ 350円」と強烈アピールに心動かされたが、
夕餉のためにここは「手打中華」だけでおとなしくしておこう。

おー、かなりケモノ臭が強いなぁ~

やっぱりインスパイア系と違って本場の白河ラーメンはうまいや。


要屋からの帰路、「宗祇戻しの碑」に立ち寄る。
前からそうした石碑があることは知っていたが、立ち寄るのははじめて。
どこに停めていいかわからなかったので、
大谷菓子店の駐車場にちょこっと停めさせてもらう。
宗祇は飯尾宗祇とも言うが、室町時代の連歌師だ。
連歌は和歌の五七五(上の句)と・七七(下の句)を交互に読み合う遊びから発展した連作の歌遊びである。
室町時代に二条良基・宗祇・山崎宗鑑などによって体系化され、のちの俳諧へとつながっていくものだ。
その宗祇ゆかりの石碑が白河市内に建っている。

宗祇は、1481年に鹿嶋神社で催された連歌興行に参加するため白河を訪れた。
このとき通りかかった婦人に連歌興行のことを尋ねると既に終わったと知らされる。
そのとき婦人が綿を背負っていたので、
戯れに「その綿は売るか」とたずねると、
婦人は「阿武隈の 川瀬にすめる 鮎にこそ うるかといへる わたはありけれ」
(阿武隈川の川瀬に棲んでいる鮎にはうるかというわたがあります)
と和歌でこたえたため、
宗祇は陸奥の風流を感じ、ここから京へ引き返したと伝えられているのだ。
ここでいう風流とは婦人の返歌の「うるか」と「わた」にある。
「うるか」とは、いまでも梅寿に行くとメニューにあるが、
鮎の塩辛であり、日本酒にもってこいの珍味だ。
つまり、「わた」とは鮎のワタ(内臓)のことであり、
「売るか」と「綿」にかけて、婦人はこのように返したというわけだ。
正直、これのどこに風流があるのか現代人には理解しづいらいところだが、
宗祇はこの返歌におどろき、怖れをなした宗祇は都へ帰っていったというのだ。

しかし、宗祇が白河を訪ねたのはこのときがはじめてではないようだ。
宗祇は1468年に日光・大田原と経由し白河まで旅している。
やはり結城氏による招きがあったようだ。
このときの紀行文を『白河紀行』として残しており、
これを記念した「宗祇白河紀行連句賞」という企画を白河市では毎年おこなっている。

「宗祇戻しの碑」のお隣には「芭蕉の句碑」も並び立つ。
早苗にも我色黒き日数哉

芭蕉と白河のかかわりについては、また別の機会に・・・
多くの歌人が訪れた白河の歴史は、どの時代を切り取っても興味深いものばかりなのだ。
益子酒店
白河市二番町16
0248-23-2432
要屋
白河市結城63
0248-62-1551
宗祇戻しの碑
白河市旭町
『登龍』の23BYをまだじっくり飲んでいないことを思いだし、益子酒店へ伺う。

店主とあれこれ日本酒談義をしていたら、「登龍」だけでなく、
「金紋会津」の「山の井 雄町」買っちゃった♪


「登龍」は火入れと生酒どちらを買おうか迷ったが、生酒はあと僅かと聞き、
生酒にする。
この「山の井 雄町」は若い蔵人がはじめて醸したお酒らしいが、なかなかの出来映えというから
飲むのが楽しみだ☆

しまった!
この足でラーメンを食べに行こうと思っていたが、
猛暑の車中に日本酒放置は避けたい。
クーラーボックスを載せていればよかったが・・・
仕方なく、一度自宅へ戻り出直す。
そして、向かったのは「要屋」だ。



テーブルマットに「ギョーザ 値下げ 350円」と強烈アピールに心動かされたが、
夕餉のためにここは「手打中華」だけでおとなしくしておこう。

おー、かなりケモノ臭が強いなぁ~

やっぱりインスパイア系と違って本場の白河ラーメンはうまいや。


要屋からの帰路、「宗祇戻しの碑」に立ち寄る。
前からそうした石碑があることは知っていたが、立ち寄るのははじめて。
どこに停めていいかわからなかったので、
大谷菓子店の駐車場にちょこっと停めさせてもらう。
宗祇は飯尾宗祇とも言うが、室町時代の連歌師だ。
連歌は和歌の五七五(上の句)と・七七(下の句)を交互に読み合う遊びから発展した連作の歌遊びである。
室町時代に二条良基・宗祇・山崎宗鑑などによって体系化され、のちの俳諧へとつながっていくものだ。
その宗祇ゆかりの石碑が白河市内に建っている。

宗祇は、1481年に鹿嶋神社で催された連歌興行に参加するため白河を訪れた。
このとき通りかかった婦人に連歌興行のことを尋ねると既に終わったと知らされる。
そのとき婦人が綿を背負っていたので、
戯れに「その綿は売るか」とたずねると、
婦人は「阿武隈の 川瀬にすめる 鮎にこそ うるかといへる わたはありけれ」
(阿武隈川の川瀬に棲んでいる鮎にはうるかというわたがあります)
と和歌でこたえたため、
宗祇は陸奥の風流を感じ、ここから京へ引き返したと伝えられているのだ。
ここでいう風流とは婦人の返歌の「うるか」と「わた」にある。
「うるか」とは、いまでも梅寿に行くとメニューにあるが、
鮎の塩辛であり、日本酒にもってこいの珍味だ。
つまり、「わた」とは鮎のワタ(内臓)のことであり、
「売るか」と「綿」にかけて、婦人はこのように返したというわけだ。
正直、これのどこに風流があるのか現代人には理解しづいらいところだが、
宗祇はこの返歌におどろき、怖れをなした宗祇は都へ帰っていったというのだ。

しかし、宗祇が白河を訪ねたのはこのときがはじめてではないようだ。
宗祇は1468年に日光・大田原と経由し白河まで旅している。
やはり結城氏による招きがあったようだ。
このときの紀行文を『白河紀行』として残しており、
これを記念した「宗祇白河紀行連句賞」という企画を白河市では毎年おこなっている。

「宗祇戻しの碑」のお隣には「芭蕉の句碑」も並び立つ。
早苗にも我色黒き日数哉

芭蕉と白河のかかわりについては、また別の機会に・・・
多くの歌人が訪れた白河の歴史は、どの時代を切り取っても興味深いものばかりなのだ。
益子酒店
白河市二番町16
0248-23-2432
要屋
白河市結城63
0248-62-1551
宗祇戻しの碑
白河市旭町
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